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■「臨界期と刷り込み(2)」 -2000/06/12-
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その(1)は下記です。
http://www.yukichi.ne.jp/~deko/colums/rinkaiki1.htm
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僕が小学生の頃に起こった連合赤軍による「あさま山荘事件」。
恐怖の犯罪がテレビを通して、ほぼリアルタイムで送られてくる体験。
自己の思想を他者に押しつけるためには殺人をも肯定する集団の存在。
説得の声、怒号、銃声、煙、放水、破壊、、。

さまざまな場面が僕という子どもに「恐るべき記憶」として吸収されていったのです。
けれども、僕の中に最も印象的に刷り込まれたことは、僕の両親の態度でした。

「おとうさんと話し合ったんだけど、、。」
僕の母は静かに切り出しました。
「私たちなら殺すぞ。」

テレビから目を移した僕は、両親の真剣な眼差しと「殺すぞ。」という言葉の響きにとまどいました。
「殺すって誰を?」と聞きました。

「お前をさ、、。」
「な、なんで? 何言いよるん?」
「もし、お前が連合赤軍みたいなことやってみろ、絶対に殺すぞ。」

僕はぞっとしました。
「こりゃあ本気だ。」と感じたからです。
それほど鬼気迫るものがありました。

母は続けました。
「お前を殺して、おとうさんも、私も死ぬ。
 お前が万が一、他人様をあやめるようなことがあったら、、、。
 どこにお前が隠れようとも、探し出して殺す。
 そして、一緒に死ぬ。
 私たち親が先に死んでしまっていても、化けて出てでも必ずそうするぞ。」

僕は小学生という、まだ自我のはっきり確立していない時期に「親の覚悟」を見たのです。
本気で両親が「一緒に死ぬ」と言ったのかどうかはわかりません。
しかし、「本気」を感じさせる何かが存在したことも確かでした。

この両親の「一緒に死ぬ」という言動が正しいか否かと聞かれれば僕は正しくないと答えます。
しかし、僕が「ひどい親だ」とは思わなかったことも事実です。

そして当時の僕は、その言動を「親の覚悟」だと受け取ったのです。
今にして思えば、僕は貴重な「臨界期」に「親の覚悟」を刷り込まれたのでしょう。

人間の子ども達は大人になるまでに長い時間を必要とします。
きっと、それぞれの年齢やその子の個性に応じた臨界期が存在するはずです。
「殺す」とか「死ぬ」という言葉の是非はともかく、僕らの覚悟をその時に示すべきだと思うんです。
柔らかな表現であっても「覚悟」は伝わるはずです。

「臨界期」と「刷り込み」。
僕らは、重要な考え方としてとらえておく必要がありそうです。
でなければ、カモのように親さえ間違って覚えてしまう子を育てるかも知れません。

また、僕は「保護と過保護(僕は「誤保護」と呼びますが)」も「臨界期」に関係すると信じています。
そのことについては、また後ほど発信します。

どうぞ、ご意見お寄せ下さい。
待っています。

(了)



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