「映画は上映期間が決まってるでしょ。ビデオのようにいつでも観ることはできません。」
白沢先生は言葉を続けました。
「たとえば自分が失恋をして落ち込んでいる時のことを考えて下さい。
たまたま観に行った映画館で、自分にぴったりの映画が上映されていたらどうですか?
その映画を観て、感動できたら、それこそ自分にとっての思い出の名作になるんです。
自分が選んだわけでもない映画が、何らかのいやしになった。
忘れ得ぬ思い出になった。
それが、自分にとって天の配剤だと思えるんです。
今の自分に必要な映画を与えてくれたんだ、そういう感覚なんです。
私は、初めて観に行った映画がたまたまそのように思えたのです。
それ以来、ずっと映画を見続けてきたんです。
ああ、別に宗教的な感覚ではないんですよ。」
そう言って白沢先生は笑いました。
考えれば、子どもや保護者は原則として学校や先生を選べません。
僕は、教員をしていた時も、そして辞めた今でも、それはおかしいと思っています。
何とかして選択できるシステムを考案しなければいけないと思っています。
しかし、現状は選択権のない学校教育システムしかないわけです。
当時、教員だった僕は思いました。
子ども達はみずから選びもしていない僕から教育を受けている。
純粋な目で、与えられたままに僕を見つめている。
目の前にいる40人の子ども達にとって僕はいい意味での「天の配剤」となれるだろうか。
子ども達が今必要としていること、今悩んでいること、それらについて力になれるだろうか。
また力になれるよう努力しているだろうか?
選ばれていない自分の責任を自覚しているだろうか?
「天の配剤」という言葉は僕に多くの示唆を与えてくれました。
親子関係もそうです。
子どもは親を選べません。
選んでいると主張する宗教もあるようですが、現実感覚として選んではいないと思います。
だから、僕という父親は我が子にとって「天の配剤」なのです。
これは社会のシステムがどのように変化しようとも、変えようのないものです。
ならば、その不変の責任をまっとうしなければなりません。
残念ながら、僕はすぐに感情的に怒ってしまうし、忙しさを言い訳に子育てをないがしろにしたりします。
自分で「これでも親かなあ」と思うようなこともしてしまいます。
僕は、もっと「選ばれていない責任」を自覚しないとだめです。
子どもの寝顔を見るとき、それが僕の中で一番その自覚が高まるときなのです。
「こんな、おとうちゃんで、ごめんな。」
それの繰り返しなのです。
もうすぐ入学・進級のシーズンを迎えます。
子ども達にとって新しい先生との出会いは「天の配剤」となります。
(了)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【お知らせ】春休み中は週刊になります。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ご意見などありましたら教えて下さい。
あなたのご意見はメールマガジンやHPにて
ご紹介させていただく場合がございます。全て匿名とします。
もし、掲載しては困る場合がありましたら、「掲載不可」と明記下さい。
それ以外は掲載合意とさせていただきます。