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【1】A子ちゃんの決断(2) -2002/09/25-
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小学校2年生のA子ちゃんは隣の席のB子ちゃんから日常的に暴力を
受けていました。
お母さんは担任の先生と相談をします。
先生はこう言いました。
「実は、B子ちゃんの家庭には少し問題があるのです。
 詳しいことは言えませんが・・。
 それで、B子ちゃんへの指導は簡単にはいきません。
 殴る蹴るは必ずやめさせますが、無視をしたりとか意地悪をいっ
 たりなどの精神的な暴力は続くかも知れませんが気長に見てくだ
 さい。」
何となく不安を覚えながらもA子ちゃんは学校へ通い続けます。

担任の先生による席替えもあり、幸いにも、A子ちゃんへの暴力はな
くなりました。
しかし、B子ちゃんは、新しく隣の席になったC子ちゃんをいじめるよ
うになったのです。
それを見続けていたA子ちゃんは悩みます。

「C子ちゃんは自分の身代わりに意地悪されている。」
そして、それを止めることができない自分と、先生に対して漠然とし
た淡い嫌悪感を抱くようになっていったのです。

その嫌悪感のもとは、実は、皮肉なことに校長先生のお話の中にあっ
たのです。

校長先生は全校朝会でこういう趣旨のことを言ったそうです。

「人をいじめることは大変悪いことです。
 しかし、人のいじめを見ていながら、止めることをしなければ、
 それは、いじめているのと同じことなのです。」

私は、B子ちゃんのいじめを止めることはできない。
「やめた方がいいよ。」とも言えない。
そして、先生でさえも止められないじゃないか・・・。
そういう思いが心に広がっていきます。

何という、感受性でしょうか。
僕はA子ちゃんのお母さんに頂いたメールを読んで驚きました。
いや、幼いがゆえのとぎ澄まされた感性なのかもしれません。

僕ら大人は理想と現実を切り離して理想を語れます。
どこかで「理想」を「実現」できない「現実」を肯定し、それを前
提としています。
少なくとも、僕にはそういう面がたくさんあります。

A子ちゃんは先生に対して、そして学校に対して不信感を持つように
なります。

A子ちゃんとお母さんは相談をし、先生に対して手紙を書きます。

「校長先生のお言葉にあったそうですが、いじめをする人と、それを
 止めることが出来ずに見ている人は同罪なのでしょうか。
 そして、どんな事情があるにせよ、いじめを止められない学校と
  いう場所は何なのでしょうか。」

先生から返事が来ます。
「教育には、いろんな価値観があり、いろんな方法があります。
 そして学校は、そんないろいろな価値観が出会い、磨き合う所だ
 と思います。私自身としては『いじめを止められないこと』を罪
 だとは思いませんが、できれば、止められるようになってもらい
 たいと思っています。校長の発言もそういう趣旨だったと理解し
 ています。『いじめ』についての考え方もいろいろありますが、
 私たちは、表面的ではなく内面から子どもを見つめたいと思って
 います。それには時間がかかります。どうぞ今後ともご協力をよ
 ろしくお願いします。」

僕は、この先生の言葉に共感を覚えます。
きっと教員時代の僕も同じように考えたと思うんです。
けれど・・。

けれど、お母さんは、そうは考えませんでした。
「時間がかかる」という返事におかしさを感じたのです。

普通の企業だったらこんな答えを出すだろうか。
何らかの苦情が来れば「迅速に」対応するのが普通なのではないか。
少なくとも、期限を切って処理するのではないか。

では、その「時間」を、娘は、また他の子ども達はどう過ごせばい
いのか。
教室にいる大人は先生だけ。
特に2年生という低学年にとって先生は「絶対の存在」に近いので
はないか。

お母さんは、そういう不満に近い不安を抱きました。
しかし、その不安はご自身の心の内におさめて、A子ちゃんに先生か
らの手紙を読んで聞かせました。

ここでA子ちゃんは決断をします。
そして、先生に手紙を書きます。
「先生、しばらく学校を休ませて下さい。」

驚いた先生はお母さんに連絡します。
しかしお母さんは、
「すみませんが、今は理由は言えません。」と答えるのみです。

結局、1週間、A子ちゃんはお休みをしました。

その間、何をしていたか・・。
実はA子ちゃんはお母さんと一緒に発表の練習をしていたのです。

自分がいじめられて辛かったこと。他の人がいじめられるのを見て
同じように辛い思いをしたこと。校長先生の「いじめを止めようと
しない人はいじめているのと同じ事」という言葉について考えたこ
と。先生が「いじめをなくすのは時間がかかる。」と言ったこと。
校長先生や先生の言葉に対しておかしいなと思ったこと。

そんな複雑な思いをみんなに伝える練習をしたのです。
内気な性格で、授業中の発表などもほとんどしないA子ちゃん。
そのA子ちゃんの決断は「みんなに訴えること」だったのです。
そのためには学校を休むこともいとわなかった。
また、それを支持したお母さん。もちろん、お父さんも応援してく
れました。
「だめだったら学校を辞めてもいい。どんなに小さいことでも
 いじめを温存するような学校なら行く意味がない。」
お父さんはそうまで言ったそうです。

余談ですが、この言葉、教員経験のある僕には、とても重い・辛い
言葉です。
担任の先生も「いじめを温存する」つもりは毛頭なかっただろうし、
そんな言動もなかったと思います。
ここには大きな誤解があるように感じられます。
しかし、実際に「いじめ」を受けたと感じている本人、またその家
族にとって「時間がかかる」という言葉は誤解を生むもとになるの
かもしれません。少なくとも、そのように受け止める家庭もあると
いうことを、教員はしっかりと把握していなければいけないな、と
今さらながら思いました。

家族一丸となっての学校に対する取り組みが1週間続きます。
学校を休むという行為は一見消極的ですが、実は自発的で積極的な
行為たりうる場合もあるということなのでしょう。

ある種の対決意識もあったとお母さんは振り返っています。
「学校ができないっていうなら、うちの家族でやってみよう。」
A子ちゃんにもそんな気迫があったとメールには書かれていました。

1週間後の学級での「朝の会」。
そこには、毅然として訴えるA子ちゃんの姿がありました。

その夜、A子ちゃん家族は乾杯をしたそうです。

その乾杯は家庭教育の独立を記念する祝杯だったのかもしれません。
そして、それは、まぎれもなくA子ちゃんの決断がスタートだった
のです。



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