僕と友達の現職教員とで話をしたんです。
まず、正確な単語の意味から「学級崩壊」を考えてみようということからスタートしました。
この言葉は「学級が崩壊する」ということですよね。
つまり「学級がくずれ、こわれる」という意味です。
ということは大前提として「学級」が存在していなければなりません。
存在しないものは壊しようがないからです。
「ベルリンの壁、崩壊」はベルリンの壁があったからこそ「崩壊」できたわけです。
では「学級」は何を意味するのか。
組織としての「学級」ならばもちろん存在します。
そこに「教員」と「児童生徒」がいるかぎり存在します。
例えば「学級会」「学級行事」などは組織としての学級をベースにした言葉です。
しかし、この「学級」は「崩壊」しませんよね。
少なくとも「教員」か「児童生徒」のどちらかがいなくならない限り存在し続けます。
ですから、崩壊するという以上、「学級」は何らかの概念を表すはずです。
例えば僕が「『学級』とはこんなもんだ。」という概念を持ったとします。
この時点で個人概念としての「学級」は存在します。
そして現実の学級を見たとします。
そこにギャップがあったとします。
たしかに僕の「学級」という概念は間違っていたということになります。
けれど、それは僕の概念が修正されるだけのことであり、なんの問題もありません。
またこの場合の概念は個人個人でバラバラですから、そもそも共通の認識はありえません。
結局、共通概念としての「学級」は存在し得ないのです。
存在しないものは「崩壊」しようがないのです。
また「学級崩壊」なる言葉は「学級の秩序が崩壊する」という意味で使われる場合が多いようです。
これまた「秩序」の概念は共通に認識されうるものではありません。
仮に共通のものがあったとしても、崩壊するためには崩壊前に「秩序」がある状態が必要ですよね。
けれど「秩序」は学級経営の中で形成されていくものですから、最初に存在するものではありません。
存在しないものは崩壊しないのです。
また最初に存在しないからこそ、これから作っていくぞっていう「学級作り」という言葉が有効になるんですよね。
だから言語的に見て、「学級崩壊」という言葉はおかしいのです。
もし、広辞苑に載るようなことがあったとしても、おかしいのです。
例えば、先生の注意を全く無視する児童が4人いた、とします。
教師にとって頭を悩ます問題です。
学級経営上、全体の問題としてとらえることも必要でしょう。
しかし、これは、基本的にその4人と先生の関係の問題に目を向けないと解決しませんよね。
もちろん背景として家庭がありますし、前段階としての保育教育があります。
だからこそ、よりパーソナルな問題として捉えなければなりません。
そして、けっしてこの関係も「崩壊」などではない。
子どもは学級という集団に所属しているし、教師も指導を試みているのですから。
「学級崩壊」など存在しないのです。
問題を「学級」という集団に持っていかずに、もっと個別に見ていかなければならないのです。
では、なぜ、「先生の言うことを無視する児童」が出てきたのでしょうか。
僕の友達はこう言いました。
「あんな子ども達は10年前はいなかったなぁ。」
「学級崩壊」は存在しません。しかし何かが変わってきたことは確かです。
そして、その変化は学級経営を難しくしていることも事実です。
その事例について友達から詳しく聞きました。
後日、そのこともコラムとして発信できることと思います。
「学級崩壊」という言葉は、たくさんの人の目を学校現場に向けさせました。
そして、現場の危機的状況の一端を警鐘をもって知らしめてくれました。
そういう意味での効果は絶大であったと思います。
しかし、今やその言葉は多くの教師を追い込んでいます。
「学級崩壊の原因の7割は教師にある」という調査結果も発表されました。
そして、教師を追い込むこと、それはけっして子どものためにならない。
これは僕の個人的な概念の一つですが、、。
「学級とは何か壊れたものがあれば、それを修復していく神聖な力を内在するもの」だと思うんです。
だから僕の中で「学級は永遠に不滅です。」なのです。
「学級崩壊なんてない」は今回を持っておしまいです。
その1 その2