最近購読を始めたのですが、毎日送られてくるコラムを読むたびに、
私とは違った視点で教育を考えられていて、とても勉強になります。
「学級崩壊」についてですが、「学級崩壊」について新たな考え方、
視点を与えていただいたような気がします。
私はこれまで、「学級崩壊」という言葉を何の気無しに使い、
その言葉があることを前提にして「学級崩壊」について考えてきました。
ですが、「学級崩壊」について、やれ家庭教育が悪い、教師が悪い、
などという前に、「学級崩壊」という言葉そのものに疑問を
投げかけなくてはいけないことを、忘れていたと言う前に、考え付きませんでした。
日常あらゆる出来事を目の当たりにします。
その一つ一つをありのまま受け止めてしまうのは、今までの教育の
在り方ではなかったでしょうか。
これからは、その出来事についてちょっと立ち止まって、
「まてよ、これは本当にこう受け取ってよいものだろうか」
と考える教育が必要とされているのではないでしょうか。
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【3】「臨界期と刷り込み」(家庭教育)について
( http://www.yukichi.ne.jp/~deko/colums/rinkaiki1.htm )
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「親の覚悟」について
方法自体が正しいか、間違っているかは、僕にはわかりません。
ただ、はいつでこさんの御両親の行動には、やはり意味があると思います。
それは、いくつかの事をはっきり、わかりやすく子供に示したからです。
一つは、物事の善悪。
次に、それをしてしまった場合の罰。
そして最後に、どんな事をしても、家族は一体だという事。
この最後が、子供が成長してゆく上で、もっとも重要ではないでしょうか。
人は、成長しつつ、他人との関係の中で他人と比較しながら「自分とはなにか?」と
いう自我同一性を確立してゆくと言います。それが確立できないと、自分自身で存在
感の感じることのできない人間になってしまいます。「透明な存在」「浮遊した存在」
の誕生です。
自分は少なくとも家族の一員である事が、はっきりしている。その事は、その存在感
を築く上で、大切な役割を果たすでしょう。
ともかく今回の話の方法は、そういった存在感を確立する方法の一つとして、重要な
意味があったかと思います。
言葉足らずですみません。
また、メールマガジン楽しみにしています。では。
(「臨界期と刷り込み」に対するご意見ありがとうございました。
実は返信してもメールが戻ってしまうのです。
この場をかりて、お礼を言わせて下さい。はいつより)
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【4】編集人ひとこと
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■行政関係者や教育関係審議会は、どうも、ちぐはぐな感じです。
「英語を第2公用語にする。」という構想を発表したのはつい最近。
今度は国語審議会が「外来語の安易な使用」に警鐘を鳴らしました。
例えば「ユーザー」は「利用者」に、とのことです。
「日本語によるコミュニケーションを阻害する」という理由なのです。
でも、そう言いながら、「コミュニケーション」と使ってるのはなぜでしょうか?
「ユーザー」も「コミュニケーション」も同じようなものだと思うのですが、、。
いったい、この先どうなっていくのでしょうか?