同感ですね。本当に身近なところでの交流が物凄く弱くなっています。家庭での家
族同士。隣近所。そして同じ職場の中でも。ほんとに「隣の人はなにするものぞ」で
す。ほんのすぐ隣ですよ。こんな笑い話があります。私の友人から聞いた話です。職
場でメールをチェックしていたら隣の席の人からのメールが入っていたそうです。し
かも内容は「ちょっと聞きたいことがあります・・・」だって。彼女怒っていまし
た。一日中隣に座ってパソコンで仕事をしているんだから手を休めて声をかければ良
いのにと。本当にそうです。声の届く範囲の人とはもっとおしゃべりする必要があり
ますね。
私にとっての「灯台モトクラシー」は自分の学校の生徒たち。毎日の忙しさにかま
け仕事をこなして行くだけ。生徒がどんな事を考えているのか、いや何をしているの
かさえ知らない。
それがわかる私にとってもっとも大切な場は図書室。ここにいて仕事をしていると
いろんな生徒が話しかけてきますし、わたしがいることなど気にせず御互いにいろん
なことを話しています。放課後の図書室は、身近な人たちのコミュニケーションの場
でもあります。ここには何時間でもいられます。
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【2】「天の配剤」について
( http://www.yukichi.ne.jp/~deko/colums/tennohaizai2.htm )
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(現職先生)から
こんにちは。
「Daily教育コラム」を購読させていただいている者です。
突然のメール、失礼かとは思いましたが、4月7日配信分の「Daily教育
コラム90」で気になる部分がありましたので、メールさせていただきました。
さて、はいつ様は「Daily教育コラム90」にて、
「考えれば、子どもや保護者は原則として学校や先生を選べません。
僕は、教員をしていた時も、そして辞めた今でも、それはおかしいと思って
います。
何とかして選択できるシステムを考案しなければいけないと思っています。」
とお書きになっておられました。この部分だけでは、はいつ様のご経験に
基づく根底にあるお考えまでは汲み取れませんので、以下に書きますことで、
勘違いしている部分がございましたら、お許し下さい。
私も、教員の身ではありますが、上記のお考えにははっきり申し上げて、反対です。
理由は二つあります。
まず教育というものは、いつの世でも、教授される側が教えを請う立場に
あると思うからです。と、申しましても教員側が「教えてやる」という横暴な
立場だというわけではありません。教える側は、その態度そのものが、すでに
教授の内容に含まれることを自覚すべきだと思います(このへんをわきまえない
教師が多いように感じます)。従って、「子供に選択するシステム」は無用と思います。
二つ目は、子供には、選択するシステムのすばらしさは、真に理解できないと
思うからです。こう書きますと、「子供を分かってない」と思われそうですが、
私も100%理解できないとは思いません。しかし、昨今の子供の様子を鑑みる
に、たいていは「楽しくないといや」「おもしろくないといや」「楽じゃないといや」と
いう考えで動いているように思われます。そんな考えの元、「自分に真に役立つ
教師を選択する」判断力があるでしょうか。万が一、子供が教師を選択する
システムができたとしても、たいていは「あの先生はおもしろい(ギャグなどを
よく言うということ)」「この先生の授業は楽」といった観点で選ばれてしまう
可能性が高いと思います。現に、最近の高校のカリキュラムに、「自分で選択
できる」システムを取り込んだところが増えてきていますが、そこに通う生徒の
問題として、「選択した科目だけでは志望する大学や専門学校の受験ができず、
不本意な進路を選択せざるをえなくなった」という事象が生じています。子供が
教師を選択するシステムが成立した時、このようなトラブルを防ぐ手立てをとれ、
と、当然、突き上げられる可能性があります。そうすれば、結局は「教師を選ぶ
こと自体が間違い」だの「教師を子供に選ばせるのは、教師側の怠慢。教育に
対して、そんなに自信がないのか」と批判されるでしょう。
また、小学生であれば、当然、親の意志が反映された選択になってしまう可能
性は大です。今のお受験の状況から、充分考えられることと思います。そうな
ると、「子供の選択」は成立しないのではないでしょうか。
現行の学校の運営に、様々な障害が出ているのは分かります。しかし、私は
戦後日本が、それを選んでしまったのだと思います。現状の日本や、子供達を
取り巻く環境に敏感になり、最善を尽くすことが教師の務めであると、私は
考えております。
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【3】「登る」(学校と家庭)について
( http://www.yukichi.ne.jp/~deko/colums/noboru.htm )
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(小1、小2の子供を持つ父親)さんから
「教える立場」を考えてみたいのです。
「21世紀を担う個性豊かな子供たちへの教育。」これが現在教育の目標
(自称)です。この目標を見つめて再度「教える立場」を考え直す良い機会
ではないかと考えるのです。
明治時代始めアメリカと通商条約を締結した際、英文を日本語に訳す作業が
行われました。その際に「Education」を「教育」と訳したのです。
視野を広げる意味でこの「Education」の真意(語義的に)を分析してみま
すと
「E」の意味は「外、外へ」、「duc」の意味は「導く」の意味が連結された
ものです。つまり「子供の個性を外へ導く」のラテン系の意味です。
さて、日本語の教育ですが、「教え、学ぶ」という意味と解釈します。
特に「学ぶ」とは「まねる」から来ていまして、お手本を上手にまねる事が
日本におけます教育の根底にあるように思います。言い換えれば個人個人
の個性を無視しても上手にまねる事から始まるようです。
明治時代の訳をそのままで良いか否かは別としまして、「教育」=「Educa-
tion」ではない。その際、21世紀を見つめ「個性豊かに育てる」教育
を思いますと疑問が多く湧いてきます。その第一歩として「家庭と学校の
フラットな関係」は基本のように思えるのです。子供は充分な遊びから
勉強のきっかけを見つけます。「充分な遊び」は集中力を養います。
「きっかけ」を見つけるのがこれから先生としての最大の焦点となるのでは
ないでしょうか。子供たちとの関わり合いをもっと持っていただきたい。
「教える立場」側としてすこしでも視野が広がりますよう、気がついた意見
でした。
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【4】「教育川柳」作品
( http://www.yukichi.ne.jp/~deko/kikaku/SenryuBosyu.htm )
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■今週のお題【参観日】
(1)教え子が 親となって 来校し<柴田さん(56)>
(2)親に似て あなたもすでに 2重人格<矢野さん(33)>
(3)参観日 隣の芝生が よく見える<2児の母さん(31)>
(4) 中学と 小学校の 日を違え<あわてものさん(41)>
■次回のお題は【出会い】です。
先生との出会い・子どもとの出会い・保護者との出会い、いろんな出会いを
五七五に託してみて下さい。
(作品例)「学校が 私と妻との キューピット」
■締切は4月24日(月)です。
もしかすると現代教育新聞さんのメルマガ「GKS News」に載るかも知れません。
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【5】編集人ひとこと
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たくさんのご意見を頂けて、僕は複眼が広がっていけるような気がします。
知識も、物の見方も学ぶ機会が多くなりました。
なんだか、いつもお得な気分です。
■思わずうなった子どもの発言集(1)
「さすがに大根や。花まで真っ白や。」