これは保護者だけの事ではなく教員にとっても同じです。
「こういう力をつけさせたい」と願ってあの手この手で迫るわけですが、
それは要するに子供の内部に秘められていた力を解放するきっかけを作るに過ぎません。
でもたいがいはでこさんの言うように「私が力をつけた」と考えがちですね。
大事なのはこどもの示した可能性に感動する心ではないでしょうか。
わたしもいろんなしかけを作って授業しますが、いつも子供の力のすばらしさには感動します。
私の想定以上の回答や発言がポンポンと飛び出すからです。
先日の中間テストでびっくりしました。
問題は「なぜ日本には縄文顔の多い地域と弥生顔の多い地域があるのか説明せよ」でした。
想定した回答は「朝鮮半島からやってきた弥生人が進入できなかったところがあるから」でした。
でも僕の正答よりすばらしい答えがありました。
「縄文人が好きなところと弥生人が好きなところが違うから、縄文人・弥生人が
それぞれ別のところに固まって住んだから」。
もうこの洞察力にはびっくり。
狩・採集を主体とした生活の縄文人は山でも海でも住めます。
どこでもと言った方が正確です。
ところが稲作を主体とする弥生人は比較的温暖な豊かな真水のある平地にしか住めません。
したがって縄文人の世界に弥生人が大挙してやってきたとき、両者は住み分けたという説が
学者の間にも有力です。
ここまでは授業では教えなかったのですが、この生徒は縄文=狩・採集、弥生=稲作農業という知識を
自分なりに発展させて、上記の答えにたどり着いたのだと思います。
テストの解説の時間にあちこちのクラスでおおいにべた褒めしてしまいました。
こどもが見せるキラキラ光る可能性につきあえる楽しさが教師をやりつづける僕のエネルギー源です。
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【3】「年齢というフィルター」(少年犯罪)について
( http://www.yukichi.ne.jp/~deko/colums/nenrei.htm )
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あの事件は本当にびっくりしました。
でも「またか」と思いました。
既に、少年による凶悪犯罪が日常化しつつあるような気がします。
それぐらい、多発していると思うのです。
私が心底恐ろしいと思ったのは、少年の17才という年齢ではなく、
その動機のなさ、不可解な言動、人を殺傷しても何とも思わないその心でした。
どうしてそんな心が生まれてしまったのか、そのことが残念でなりません。
ところで、はいつでこさんは、17才という年齢は大人として扱って
いいのではないかとおっしゃっていたように思います。
(勘違いじゃないことを祈ります。)
私は逆に、現状では「17才」は大人とみなすべきじゃないと思うのです。
特に日本のような平和で豊かな国にのほほんと育ってきてしまった日本人は、
本当の意味での苦労を知りません。(私自身を含めてです。)
そして、本当に自立すること、大人になることの意味を知らずに
生きている「大人たち」ですらたくさんいると思うのです。
昔は、たぶん違っていただろうと思います。
自分がしっかりしなくちゃ明日をも知れないという状況が
普通だったんじゃないでしょうか、終戦直後までは。
学力だとか、知識だとかいう点で見れば、
今の子供たちの方が遙かに「小利口」なのかも知れません。
でも、精神の発達ということから見れば、むしろどんどん遅くなっていって
るんじゃないでしょうか。
社会がそれでも成り立ってしまっているのですから。
日本は豊かさを手に入れました。でも皮肉なことに、
毎日の生活に困ることもなく、
「飢え」も知らない豊かな世の中、
子供は学校に行ってさえいればよいという状況のために、
子供たちは、平和の「ありがたさ」や幸福を感じることに鈍感で、
自分のことにしか興味がわかずに物事に無関心で、
精神薄弱になっている。
鬱々として、有り余るエネルギーを発散できずにいる。
それが現代の少年たちの現状ではないかと思います。
一方で、しっかり自分の考えを持ち、毎日充実した生活をし、
犯罪に手を染めるなんて考えもしない子供たちもいるでしょう。
その差を生むのは、やはり「教育」だと思うのです。
あの17才の少年の母親が言った言葉は衝撃的でした。
「説得する自信がない。」
これがあの少年を犯行に至らしめたのだと思いました。
このままでは、17才を大人扱いすることはできません。
でも、そういう17才を生んでしまう現状を憂うべきだと思います。
15才でも、16才でも、大人として扱えるほど、
子供たちの精神発達を促すにはどうしたらいいのか、
平和なぬるま湯生活の中で、子供の心をどうやって健全に育成するか、
そのことを親も教師もみんなが考えなくてはならないと思います。
「若い頃の苦労は買ってでもしろ。」
を実行させられる何かよい手だてはないものでしょうか。
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【4】「3つの『もん』」(保護者)について
( http://www.yukichi.ne.jp/~deko/colums/3tunomonn1.htm)
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「こんなことから保護している」というテーマにふさわしいかは分かりませんが、
息子が保育園年長組の時の話です。
息子の通っていたのは、靴下をはかせない主義の公立の保育園でした。
素足で遊ぶので、また親から受け継いだ体質からか、
おともだちから「あしくさ(足臭)寛太」と呼ばれるようになり、悩んでいました。
家に帰ると、まっさきに風呂場に行きシャワーで足を洗っています。
母も、靴の中敷を洗って交換できるものにして毎日取り替えてやりましたが
やはり限界があります。
(靴下さえ履ければ解決する問題なのですが、そこは保育園に相談しても
やはり危ないからという理由で許していただけません。)
体臭というのは、本人が気にすればするほど強くなるものです。
そこで母は、毎日、息子の足の臭いを嗅ぐことにしました。
うんと酸っぱい匂いのする息子の足を、
「ああ、いい匂いだね。寛太君の足の匂いがお母さんは大好き。」といって…。
息子は、はじめは「お母さん絶対臭いって言うから、嫌だ。」
といって嗅がせてくれませんでした。
しかし、母が本気でいい匂いだと言っているようだと分かると、
だんだん喜んで足を差し出すようになりました。
そんなことを毎日続けているうちに、いつしか「あしくさ寛太」事件も
影を潜めてしまいました。
小学校に入ると靴下を履いてもよくなり、今では足も臭わなくなりました。
保母さんや学校の先生に子どもの悩みを相談してみても
解決の糸口が見つからないときでも、
「子どもは、たった一人でも二人でも、
そのままの自分を受け止めて愛してくれる存在があれば、
きっとたくましく生きていける…。」
できることなら、親がその存在になってあげたい。
これが、我が家の子どもの保護のモットー(?)です。
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【5】編集人ひとこと
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■地元の新聞に「ほたる情報」がのっています。
「どこどこで、ほたるを見ることができますよ。」というお知らせなのです。
こんな記事が出るということは、ほたるは大ピンチなのでしょう。
「とき」のように、外国からほたるを譲ってもらうなんてことになったら変な話です。
「ほたる」を守るのは教育の力しかないと思います。
■思わずうなった子どもの発言集(6)
場面:学校探検の時間にSくん
「先生、下駄なんか全然入ってないのに、なんで下駄箱って言うの?」